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大阪高等裁判所 昭和58年(う)777号 判決 1985年3月29日

主文

本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は、大阪地方検察庁検察官検事谷山純一作成の控訴趣意書に記載のとおりであり、これに対する答弁は、弁護人木下肇、同野村侃靱、同川中修一連名作成、並びに各被告人それぞれ作成の各答弁書に記載のとおりであるから、これらを引用する。

論旨は、事実誤認を主張し、要するに、原裁判所は、「被告人両名は、かねてから革命戦術をめぐつて革命的共産主義者同盟前進派と激しく対立し、相互に殺傷行為を繰り返している日本革命的共産主義者同盟革マル派に属するものであるところ、右前進派構成員が、東京高等裁判所で開かれる、いわゆる狭山裁判紛砕支援闘争のための人員バス申込のため、昭和四九年九月二四日午前中に、大阪府守口市早苗町五七番地所在の中央観光バス株式会社に赴くことを探知し、右前進派構成員を殺害しようと企て、ほか数名と共謀のうえ、

第一  同月二四日午前九時五〇分ころ、右中央観光バス株式会社付近路上において、前進派構成員の生命身体に対して共同して害を加える目的をもつて、鉄パイプ数本を準備して集合し、

第二  前同日同時刻ころ、前同所において、株式会社中央観光サービス社員柳生宏(当一八年)を前進派構成員と誤認し、同人に対し、その頭部を鉄パイプで殴打し、その場から逃げ出した同人に右鉄パイプを投げつけ、更に同所に駐車中の普通四輪貨物自動車内にいた前進派構成員中山久男(当時二五年)の身体を鉄パイプで乱打し、これを制止しようとした右中央観光バス株式会社社員谷口昭(当二四年)を前進派構成員と誤認し、同人に対し、その頭部を鉄パイプで殴打し、更に同会社事務所内に逃げ込んだ右中山に対し、その頭部や背部などを鉄パイプで殴打し、よつて右中山をして、同年一〇月六日午後九時四二分ころ、神戸市兵庫区新開地二丁目一番一六号吉田病院において、脳挫傷により死亡させて殺害したが、右柳生に対しては、加療約三日間を要する後頭部打撲の傷害を、右谷口に対しては、加療約三週間を要する左顔面挫傷の傷害を負わせたのみで殺害の目的を遂げなかつた」との公訴事実に対し、被告人両名がその犯人である点を除くその余の事実については、おおむね公訴事実のとおり事実を認定したが、被告人両名と本件犯行との結びつきについては、本件の目撃者らの供述は、被告人両名が本件犯人であると断定するには不十分であり、他に被告人両名が本件の犯人であることを認めるに足りる証拠はなく、弁護人の主張する被告人両名のアリバイも否定するに至らず、結局本件は犯罪の証明がないことに帰着するとして、被告人両名に対し無罪を言い渡した。しかしながら、本件の目撃者らは、犯行の現場で近距離から犯人らを目撃し、その記憶に基づいて、捜査段階から一貫して被告人両名が本件の犯人である、あるいは似ているなどと供述しているのであつて、捜査官らも、各目撃者に対し、写真面割はもとより実物面割あるいは面通しを重ねて慎重のうえにも慎重を期して犯人特定に至つているのであるから、これらの供述は十分信用できるものである。個々にみても、石橋良夫は、中央観光玄関付近で一時捕まえた犯人の一人と至近距離で約一〇秒間対峙してその素顔を目撃し、また同所付近から、谷口を殴打し後に引き返して来た別の犯人の素顔を目撃した者で、事件当日の午後、記憶のまだ新鮮な時期に、百枚以上の異つた人物写真が貼付されている写真帳を一人で見て、被告人櫻井の写真が捕まえた犯人であると断定し、被告人巽の写真が谷口を殴打等した犯人によく似ていると指摘し、その後一〇月一九日には、中之島中央公会堂の集会に参加していた被告人両名を実物面割し、改めて両名が犯人であると断定的に特定し、更に一一月二六日に、逮捕された被告人両名を面通しした際にも、間違いないと述べたうえ、原審公判に証人として出頭し、事件から約三年を経過した期日に被告人両名と対面した折にも、両名が犯人であると指摘し得たものであるから、石橋のこれら一貫した犯人特定の供述に疑問の余地はない。前川勝は、中央観光西側路上で、谷口を殴打した犯人の素顔を三、四メートル離れた位置から目撃した者で、記憶の新鮮な事件当日の午後、前同様の写真帳を一人で見て、被告人巽の写真を谷口を殴打した犯人に非常によく似ていると指摘し、また被告人櫻井の写真が犯人の中の一人に似ていると述べ、その後検察官による写真面割に際し、前同様の指摘をし、被告人両名逮捕後の面通しにあたつて、被告人巽につきイメージが似ているなどと述べ、更に原審公判に証人として出頭し、事件から約四年を経過した期日においても、被告人巽が犯人に近い感じがすると指摘し得ているのであつて、これらの供述により前川の犯人特定供述の信用性は十分である。西川芳明は、前記路上で、谷口を殴打した犯人の素顔を二、三メートル離れた位置から目撃した者、松山博美(旧姓筒井)は、谷口を殴打した犯人の素顔を七、八メートル離れた中央観光の建物三階の窓から目撃した者、尾藤治は、中央観光事務所内に侵入して来て中山を殴打した犯人の素顔を約一メートルの距離から目撃した者、佐々木淳夫は、前記路上で谷口を殴打した犯人の素顔を目撃した者であるところ、尾藤及び佐々木は、記憶の新鮮な事件当日の午後、前同様の写真帳をそれぞれ一人で見て、尾藤は被告人櫻井の写真を、佐々木は被告人巽の写真を選び出し、それぞれその目撃した犯人に非常によく似ていると指摘し、西川及び松山も、事件から比較的間もない時期に、それぞれ一人で前同様の写真帳を見て、いずれも被告人巽の写真を選び出し、それぞれその目撃した犯人に非常によく似ているとか、イメージが一致すると指摘し、西川、松山、尾藤、佐々木は、検察官による写真面割の際や被告人両名逮捕後の面通しの際にもそれぞれ前同様の指摘をしているのであつて、右各目撃者の犯人特定供述も十分信用するに足るものである。しかるに、原判決は、他の目撃者らの事実に反するあいまいな証言を採用し、犯人全員が覆面をしていた可能性が濃厚であるとか、目撃者らが写真面割に際し写真帳を共同閲覧して意見を交換し合つていた疑いがあるなど誤つた前提をとり、また前記目撃者らの証言時の態度を誤解したり、その供述のさ細な矛盾を誇大視するなどして、目撃者らの前記の犯人特定供述をいずれも結局信用できないとしたうえ、不自然、不合理な被告人らのアリバイ供述を排斥し切れず、前記の判断に至つているもので、証拠の評価、取捨選択を誤つた結果、事実を誤認したものであつて、これが判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、原判決はとうてい破棄を免れない、というのである。

そこで、当裁判所は、所論及び答弁にかんがみ記録及び証拠物を調査し、当審における事実取調の結果をも参酌して検討したところ、被告人両名が本件の犯人であると断定するには証明が不十分であるとの原判決の判断は正当であり、これを維持せざるを得ないとの結論に達した。以下にその判断の理由を説明する。

一本件事案の概要と捜査の経過

原審及び当審で取り調べた関係証拠を総合すれば、原判決が「第二本件の発生と被告人両名の逮捕」の項で適切に認定した事実を含め、以下の事実関係を優に認定することができる。すなわち

1  中核派活動家の田村某、中山久夫外一名は、昭和四九年九月二四日午前九時三〇分ころ、同月二六日に東京高等裁判所で開かれるいわゆる狭山裁判の公判闘争参加の上京バス運行の打合わせのために、大阪府守口市早苗町五七番地中央観光バス株式会社(以下中央観光という)に普通貨物自動車(ライトバン)で赴き、右三名のうち田村が中央観光一階事務所に入つて打合わせをし、中山外一名は同事務所西側(正確には南西側であるが以下西側とし、他の方位もこれに準ずる)路上に駐車した右ライトバン内で待機していた。

2  同日午前九時五〇分ころ、いずれもグレー色系作業服上下を着て黒色野球帽をかぶり長さ約七〇センチメートルの二段式鉄パイプを手にした男五、六人の集団が、右ライトバンに襲いかかり、所携の鉄パイプで同車の窓ガラスを打ち破り、中にいた中山外一名に鉄パイプで突くなどの暴行を加え始めた。

3  中央観光サービス株式会社(中央観光の関連会社であり中央観光と事務所を同じくする。以下両会社をあわせて中央観光という)の従業員柳生宏は、そのころ営業に出かけるため中央観光事務所玄関を出たところ、襲撃犯人の一人にいきなり後頭部を鉄パイプで殴打され、驚いて同事務所南側道路を東方向に逃げたが、右犯人から鉄パイプを投げつけられた。

4  中央観光の従業員谷口昭は、事務所内から窓ガラスを通して中山らのライトバンが襲撃されているのを目撃し、これを制止するため長さ九五センチメートルの木片を持つて事務所北側の出入口から西側の路上に出、襲撃犯人たちに向つて「やめんか。」と言つたところ、襲撃犯人の一人から鉄パイプで左こめかみを一回強打されてその場に転倒し一時気を失うに至つたものの、事務所内から出て来た中央観光の営業部次長石橋良夫らが「うちの社員に何をする。」などと言つて制止したため、それ以上の攻撃を受けずに終つた。

5  ライトバン内で襲撃犯人たちから鉄パイプで攻撃されていた中山は、助手席側ドアから車外に出て正面玄関から中央観光事務所内に逃れたが、これを追いかけた犯人のうちの一人から、同事務所内社長室入口付近において、肩甲部を鉄パイプで一回殴打され、かがみ込んだところをさらに後頭部を鉄パイプで一回強打されその場に倒れた。

6  中央観光事務所内に侵入した犯人の一人は、逃走する際、丁度正面玄関から同事務所内に入つて来た前記石橋に作業服上着のすそをつかまれ、玄関外に出たものの、上着のすそをつかまれたまま透明な一枚ガラスでできた観音開きの玄関扉を閉じられてしまつたため、玄関扉内で上着のすそをつかんでいる石橋から逃れられなくなつたが、逃走しかけた三、四名の他の犯人たちがこれに気付いて引き返して来たことから、石橋が危険を感じて犯人の上着のすそをつかんだ手を離したため、その犯人は他の犯人たちとともに逃走した。

7  襲撃犯人たちは、中央観光事務所南側道路を隔てた京阪電車の地下道をくぐつて南方向へ逃走し、右犯行を目撃していた前記石橋、中央観光の従業員前川勝、木曽哲男の三名がこれを追跡し、さらに通報を受けて出動したパトカーに乗車して行方を捜索するなどしたが、結局見失うに至つた。

8  被害者中山は、守口市内の松下病院に搬送され応急手当を受け、その後神戸市内の吉田病院に移されて治療を受けたが、同年一〇月六日午後九時四二分ころ頭部打撲による脳挫傷等により死亡した。被害者谷口は、右松下病院で三週間の休養を要する顔面挫創(線状骨折あり)と診断され、傷口の縫合手術を受け、以後約一〇日間休業した。被害者柳生は、その日、守口愛泉病院で加療三日間の頭部打撲(外傷Ⅰ型)との診断を受けた。

9  本件発生直後通報を受けた警察では、前記のとおり目撃者をパトカーに乗車させて犯人の捜索に当たるなど捜査活動を開始するとともに、まもなく前記石橋、前川、木曽らを守口署に出頭させて事情聴取を行つたほか、兇器その他証拠品の捜索に当たり、中央観光事務所内において、黒色野球帽一個(当庁昭和五八年押第三四一号の四)、前記京阪電車地下道内及び同地下道南側入口付近において、二段式鉄パイプ五本(前同押号の一及び二)及びガーゼ製白マスク一個(前同押号の八)、右地下道南側入口から南方約四〇メートルの路上に駐車中の自動車の下において、二段式鉄パイプ一本(前同押号の三)、守口市春日町八〇番地守口市立第三中学校校庭において、黒色野球帽三個(前同押号の五)及びねずみ色作業服上衣一着(前同押号の六)、同市高瀬町一丁目一六番地先路上において、ねずみ色作業服上衣一着(前同押号の七)、等いずれも襲撃犯人が遺留したと認めた兇器、衣服等を発見領置したが、これらは、後の捜査においても、結局犯人を特定するに足りる物証とはなり得なかつた。

10  犯人らが襲撃に来た当時、中央観光事務所玄関を出たところには前記柳生が、事務所内には前記谷口、石橋、前川、木曽の外にも、営業部長尾藤治、従業員佐々木淳夫、西川芳明(西川は同社鶴見営業所勤務で当日所用で本社事務所に来ていた者)大渕愛子、越智武則、中山富美香(旧姓市村)、日下博之、福田祐次郎らがいて、おのおの同事務所内や正面玄関付近又は西側路上から右の犯人を目撃し、また同じ建物の三階にあつたスリーボンド株式会社でも、同従業員松山博美(旧姓筒井)らがその窓から路上での犯行を目撃し、中央観光正面西側道路を隔てた駐車場の西北隅の自宅に住む主婦の速水ヤス子も路上における犯行を目撃していた。

11  警察では、本件をいわゆる内ゲバ事件の発生とみて、大阪府警本部警備第一課警部補友田但馬ら同課員を中心とした警察官二〇数名を事件後まもなく現場に派遣し、友田らの現場指揮のもとに、中央観光事務所内や周辺で犯人割り出しに向けて聞き込みを開始した。特に、同日午後からは、中山らの所属する中核派と当時激しく対立し内ゲバを繰り返していた革マル派に所属する活動家ら百余名の顔写真が番号のもとに貼付されている革マル派面割写真帳(以下面割写真帳又は写真帳という。)二、三冊(これらはいずれもほぼ同じ体裁のものであり、内一冊が大阪府警本部公安第一課司法警察員妻鹿信夫作成にかかる昭和四九年八月一日付革マル派面割写真帳作成報告書添付の写真帳である。前同押号の一三)を中央観光事務所内に持ち込み、前記石橋、前川、尾藤、佐々木ら目撃者らにこれを示して、いわゆる写真面割を実施した結果、右目撃者らの指摘により被告人両名が容疑者として浮かび上つた。翌日からは、府警本部内に捜査本部を設けて、他の目撃者らも含めて写真面割を中心とした捜査を継続し、同年一〇月一九日には、石橋を被告人両名が出席して集会していた中之島中央公会堂に連れて行き、いわゆる実物面割を実施するなどした後、中央観光玄関付近で石橋に捕まえられた犯人が被告人櫻井であり、谷口を殴打した犯人が被告人巽であるとの心証のもとに、同年一一月二一日被告人両名を逮捕するに至り、その後も、取調室内にいる被告人両名に対し、一部の目撃者らによるいわゆる面通しが行なわれるなどした後、同年一一月三〇日、被告人両名に対し本件公訴が提起されるに至つたものである。

二本件証拠関係の特質

本件では、被告人両名を本件事犯の犯人と結びつける証拠としては、前記石橋、前川、筒井こと松山、尾藤、佐々木の六名の犯人と被告人らとの同一性について言及している捜査段階又は公判段階の供述がほとんどすべてであり、他には、被告人両名が全学連関西共闘会議に所属するいわゆる革マル派の活動家であつたという点を除いて、被告人らと犯人とを結びつけるに足る物的証拠はもとより情況証拠も全く存しないことが特色である。そして、右石橋ら六名の目撃者らは、犯人らとはそれまで全く面識がなく、いずれも、主として犯人の顔つきの記憶をもとに、被告人らを特定するに至つている点が共通しているのである。

思うに、顔の記憶に基づく人の同一性確認の供述は、体験した事実の経過を機械的に再生して叙述する一般の供述とは異なり、比較対照という判断作用を伴うがゆえに、つねに誤認の危険性をはらんでおり、それだけに、観察、記憶の正確性についてはもちろんのこと、判断に際し他からの暗示等による影響の有無も重要な意味を持つこととなつて、これらにつき慎重な吟味を要するものであることはいうまでもない。

本件においては、前記証拠関係の特質にかんがみ、次の点を指摘し得る。すなわち、石橋以下犯人特定に至つた目撃者らは、後に検討するとおり、捜査段階において数次にわたつていわゆる写真面割を重ね、その後いわゆる実物面割または面通しをしているのである。本件目撃者のように、犯人が初対面の人物であり、その観察時間も短い場合には、犯人の顔についての記憶は、その顔に特段の特徴でもない限り、一般にはかなりぜい弱なものと考えられる。そのような場合、目撃者は、一たびその記憶する犯人像と類似する写真を見せられ、同一性を確認すると、次に再び写真面割ないし実物面割等をする機会には、当初の犯人像のぜい弱な記憶は、写真で見た人物像の記憶によつて影響を受け、その両者を分離することが困難となつて変容を遂げ、その変容した記憶に基づいて同一性を判断する危険性が考えられ、ひいては、写真で見た人物像の記憶で再確認することにもなりかねず、こうした同一性確認の機会が重なる度に、元の記憶は、ますます、それも無自覚のうちに混同し変容してしまう危険性が考慮されなければならない。このことは、目撃者がもし第一回目の同一性確認の際に誤認したら、その誤りは、その後の同一性確認の機会にも維持され、これを元の記憶によつて訂正することがほとんど不可能となつて、被告人の立場に立たされた者は、極めて危険な羽目に陥ることを意味するものである。そうしてみると、目撃者による犯人の同一性の確認は、第一回目のそれこそが決定的に重要で、その際の判断の正確さ程度がその証拠価値のほとんどすべてを決し、第二回目以降の確認は、その際、犯人の特徴につき新たな記憶が喚起されるなど特段の事情でもない限り、独自の証拠価値に乏しいものというべきである。従つて、捜査段階において、写真面割等で目撃者による第一回目の犯人確認手続がなされる場合には、これが公正になされるよう配慮されるべきはもちろんのこと、後の公判時点で、その正確さの吟味を可能にする証拠保全にも意を用いるべきことは、当然の要請といい得るのである。

この点、所論が本件捜査の数次にわたる面割、面通しを評価して「犯人の特定には慎重のうえにも慎重を期したもので、この点に疑問の余地がない。」と主張している点は、右のような観点にかんがみ、また、後記のとおり、本件では第一回目の写真面割の過程に疑問を残していることを考慮すると、いささかずれているとの感を否めない。「同一性の確認は、第一回目が肝心である。第二回目以後の確認は、最初のオリジナルな観察の確認というよりも、第一回目の観察の確認ということに帰着するからである。(中略)従つて、同一性の識別こそは、捜査の最初の段階において取扱に遺憾のないように努めなければならないのであつて、その後になつて幾ら慎重を期しても間に合わないと知るべきである。」(平出禾「こどもの証言の信憑力」判例時報一五三号四頁)との指摘は正鵠を得ていると思われる。

三各目撃者に共通する観察状況について

犯人と被告人らとの同一性につき言及している石橋以下六名の供述の個々的検討に先立ち、これら目撃者に共通していた心理状態や犯人らの風体等、観察上正確な犯人識別を制約していた諸状況の有無、程度について検討してみる。

関係証拠によると、石橋以下六名の目撃者にとつては、本件は予期しない突発的かつ衝撃的な事件であつたこと、事件を知つてから犯人らが逃走するまでの時間も数分間程度で、ましてや犯人らが動き廻つている中で、その顔を観察できた時間となると、石橋をやや例外として極く限られていたこと、犯人らとはこれまで一面識もなく、犯人らの顔も興奮していて平常とは形相を異にしていた可能性も強いこと(原審谷ロ昭、西川芳明の各証言)等が認められ、これらの一般的状況は、目撃者らにとり、犯人を冷静かつ正確に観察、識別することを相当程度困難にしていたと思われる。

また、犯人らがいずれもグレー系作業服上下を着て黒の野球帽をかぶつていた点も、平常の服装とは異つており、殊に犯人らが野球帽をかぶつていた点は、原審証人西川の供述によれば、その帽子を深々とかぶつていたというのであり、佐々木も同様の供述をしている(検察官に対する昭和四九年一〇月一八日付供述調書)ことにもかんがみれば、犯人らの顔は、その識別を決するのに重要な特徴点となり得る額の部分がほとんど隠されていたことになるのであつて、服装の異様さと相まつて、犯人の識別を一層困難にさせていたと考えられる。

次に、本件で重要な争点となつている犯人らが覆面をしていたかについて検討してみる。本件証拠上、目撃者らのこの点に関する供述は区々に分れているが、大別して、石橋良夫、大渕愛子が玄関で逮まえた犯人(以下玄関犯人という)または中山を殴打した犯人(証拠上玄関犯人と同一人物である疑いは濃厚である。)につき、前川勝、松山博美が谷口を殴打した犯人(以下谷口殴打犯人という)につきそれぞれ覆面を否定し、逆に西川芳明、木曽哲男、速水ヤス子が犯人全員につき、尾藤治、中山富美香、日下博之、福田祐次郎が中山を殴打した犯人につき、それぞれマスクないしはタオル様のもので覆面をしていたことを肯定している。犯人らがもし顔の下半分を大きく覆う形で覆面をしていたとすれば、顔の識別は極めてむつかしいと思われ、石橋以下何名かの者が犯人を一応特定し得ていることは、逆に、少なくともその特定された犯人については、覆面をしていなかつたのではないかと推測することも可能であり、この限りで、所論が「むしろ、本件犯人の中には覆面をしていた者もあれば覆面をしていなかつた者もあるとみるのが合理的である。」と主張する点も理解できないではない。しかしながら、ガーゼ製白マスクが現場付近の地下道に遺留されていたこと、犯人らの行動は周倒ママな準備のもとに決行された計画的犯行と推認できるところ、作業服上下と野球帽で服装を統一していた点は犯人識別を困難にさせる狙いと考えるほかなく、そこまで周例ママに準備した犯人らが顔の識別を困難にさせるのにも最も効果的な覆面の点について統一を欠いていたとは考えにくいこと、前記のとおり覆面を肯定する目撃者が多数いること、殊に当審で取り調べた速水ヤス子の昭和四九年一〇月三日付司法警察員に対する供述調書中には「一人一人確かめてはいないが感じとして、全員の人が白マスクをしていたと思います。黒つぽい服装でしたので、白いマスクが印象に残つております。」との印象的な供述記載のあること、玄関犯人についてはほぼ一貫して覆面の点を否定する石橋でさえ、原審三三回公判で「はじめに襲撃のあつたときには、みんな覆面をしていたと思う」旨証言していること、前川も、事件当日、写真面割が行なわれる前に守口署で事情聴取を受けた際、犯人全員が覆面をしていたと再三にわたつて供述していること(刑訴法三二八条の証拠である前川の司法巡査に対する同日付供述調書)等を総合すると、少なくとも、襲撃の当初においては、犯人らは全員マスクないしはタオルで覆面をしていた疑いが濃厚と考えられる。もつとも、犯人らが襲撃によつて動き廻る途中で、覆面がはずれ、あるいは、ずれるなどして、顔がそれなりに観察し得る状態になつたとも考えられるが、あくまで臆測の域を出ず、覆面を否定する目撃証人の証言中にもこれら覆面の状態変化のあつたことを正確にとらえた証言は一つとしてなく、捜査段階の供述においても同様である。

思うに、尾藤や西川は、それぞれ中山を殴打した犯人や谷口殴打犯人について、一方で覆面を肯定しつつ、他方で犯人特定の供述をしているのである。この点をも考えると、もちろんその顔を覆う程度にもよるが、覆面をしていても、顔の印象が全くなくなるわけのものではなく、その露見している部分の印象によつてはこれと似た人物を指摘することは、その正確性の程度を度外視すれば、決して不可能なこととは思われない。その意味において、石橋以下六名の目撃者らが犯人を後に特定し得たことを覆面否定の大きな根拠とする所論は、原判決の如く「論理的に誤りがある」とまでは言い切れないとしても、今一つ説得力に欠けることは否めない。

ところで、前川の覆面についての捜査段階の供述経過をみるに、同人は、事件直後に、守口署ではじめて事情聴取を受けた際、前記のとおり、犯人全員がタオルで覆面をしていたことを再三にわたつて述べ(刑訴法三二八条の証拠である司法巡査に対する昭和四九年九月二四日付供述調書)、その後、その日の午後、中央観光事務所内で写真面割をした際には、何ら覆面のことに触れることなく、谷口殴打犯人と他一名を特定し(刑訴法三二八条の証拠である司法警察員に対する同年九月二四日付供述調書)、約二週間後の一〇月五日に守口署で再度司法警察員から事情聴取を受けた際には、覆面の点を訂正し、「内一、二人はマスクをしていたように思います。他の者は何もしていませんでした。私が前の調べで覆面をしていたと申し上げたのは、私自身よく大学に出入りし、覆面してヘルメットをかぶつた姿を見ておりましたので、それを連想して言つたものだと思います。」と供述するに至り(刑訴法三二八条の証拠である司法警察員に対する同年一〇月五日付供述調書)、同年一〇月一七日に守口署で前川検事から事情聴取を受けた際にも覆面の点について同旨の供述をしている(検察官に対する同日付供述調書)。なるほど、所論の如く「事件直後の事情聴取に際しては、供述者側においても、衝撃的事件を目撃したことによる興奮と混乱から抜け切れず、その記憶を整理するいとまもなく、思いつくままに印象的な事項を供述するため、ややもするとその供述に混乱がある」こともあり得よう。しかし逆にまた、前記のとおり、ぜい弱な記憶は常に変容の危険性があることともいえるのであつて、写真面割などを経た場合、その写真による印象が当初の犯人像と混同し分離することが困難となる可能性も考えなければならない。前川において、覆面をしていない写真を見た後、その記憶にかえつて混乱が生じた可能性がないとは決していえないと思われる。前川に対し、事件当日、写真面割を担当した当審証人岡村政之は、守口署における前記供述のあることを知らず、同人に写真帳を見せる前に覆面の有無について確認をしなかつたと供述している。もしそうだとすると、その後の前川の覆面否定の供述ひいては犯人特定供述の証拠価値を結果として低下させるものと評さざるを得ない。

石橋の供述についても次のことを指摘し得る。原審で取り調べた同人の供述調書を通観してみると、九月二四日(二回、うち一回は写真面割をしている。)、同月三〇日に司法警察員(以上の三通の供述調書はいずれも刑訴法三二八条の証拠。)から、その後一〇月一七日、一一月二六日、一一月三〇日に検事前川昭三からそれぞれ事情聴取をされ、その都度調書が作成されているが、石橋が覆面について初めて触れたのは、一〇月一七日の検察官の調書であり、そこでは、ライトバンの窓ガラスを叩き割つていた犯人らの服装について述べた後、「覆面をしていたかどうかは覚えておりません。」とだけ述べ、他に覆面についての供述はなく、その後一一月三〇日の調書に至つて初めて「私が今度の事件を目撃した時、櫻井哲も巽裕介もマスクや覆面はしておらず、私は素顔を目撃したのです。」と明確な覆面否定の供述がなされているのである。犯人ら、特に石橋らから犯人特定のなされた玄関犯人や谷口殴打犯人についての覆面の有無は、マスクの遺留品があることや前川の事件直後の供述があること等からして、捜査官にとつても当初から無関心でおれなかつた事柄と思われるのに、九月三〇日付の右調書に、一方で事件の経過や犯人の服装についてかなり詳細な供述がなされているにもかかわらず、覆面については何らの言及もなされていない点や一〇月一七日付の調書で玄関犯人について覆面の有無が語られていない点は奇異な感じを否めない。石橋に対しては、一一月三〇日に明確な覆面否定の供述がなされるまでの間に、後記のとおり、数次にわたつて写真面割、実物面割、面通しが実施されていることからすると、これらの過程で記憶に混同、変容が起きた可能性も考慮に入れざるを得ず、右の供述経過は、一一月三〇日以降公判証言でも維持される覆面否定の供述の価値をある程度減殺するものといわざるを得ない。

所論は、覆面を肯定する西川の原審証言を、事件発生から約六年を経過した時期になされたもので、記憶の減退ないし混乱によるものと思われる旨主張している。そうかもしれない。しかし、注目すべきことは、検事前川昭三に対する西川の昭和四九年一一月一三日付供述調書には、野球帽等服装について触れられているのに、覆面については一切言及されていない点である。同検事に対する前川、石橋、松山(旧姓筒井)の供述調書には覆面につき、それも否定する供述は存するのに、西川については、覆面について何らの供述記載のないことは奇妙なことである。覆面の点に十分関心を持つていたはずの同検事は、西川に対しても、覆面の有無を尋ねたと考えるのが常識的であり(原審で証人として出廷した同検事はその点を否定してはいない。)、西川が覆面をしていなかつたと答えていれば、調書上これに記載されないはずのない事柄である。そうだとすると、覆面の点について供述調書に全く記載がないのは、同検事が尋ねるのを失念したのではなかろうかとも考えられ、もしも覆面の有無について尋ねておれば、あるいは覆面を肯定する供述があつたかもしれないという疑いが残るのである。してみると、西川の原審証言を所論のように批判することは、必ずしも当を得ているとは思われない。覆面について全く供述記載のない同検事に対する佐々木の供述調書二通についても、同様の疑問を禁じ得ない。

所論はまた、尾藤、木曽、福田、日下、中山らの覆面を肯定する原審証言を長期間経過後の記憶の希薄化ないしは混乱に基づく等の理由で信用性がないと批判しているが、同人らは、いずれも事件直後に目撃者として何らかの形で事情聴取されたと認められ又は推認されるところ、その際、尾藤を除いて犯人特定に資する有効な指摘をなし得なかつた証人群であるとうかがえ、当時、捜査官らにおいて、覆面の点につき、同人らにどれだけ真しな事情聴取がなされたかは疑問とせざるを得ず、少なくとも尾藤を含めて前記証人の原審証言に対し、覆面に関する自己矛盾供述は刑訴法三二八条書面としても一切提出されていないのであつて、所論のような批判が適切とは思われない。

以上の諸点を勘案すると、玄関犯人や谷口殴打犯人を含め、犯人らがマスクないしはタオル様のもので覆面していた疑いは、それがどの程度顔を覆つていたかはともかくとして、依然として払拭できないといわざるを得ず、原判決のこの点に関する指摘は右の限りでこれを是認することができる。してみると、犯人らの顔は、目撃者らにとり、さらにその識別を困難にさせていた疑いが残ることになる。

四事件当日の写真面割の経過について

原審及び当審で取り調べた関係証拠によれば、本件の目撃者である石橋、前川、尾藤及び佐々木は、事件当日の午後、中央観光事務所内で、捜査官から面割写真帳を見せられ、貼付されていた被告人両名の写真の両方又は一方を指摘して、本件の犯人であるとか犯人に似ているなどと犯人特定の供述をし、これらが供述調書に録取された事実を認めることができる。当時いずれも府警本部警備第一課に所属し、右の写真面割を担当した警察官岡村政之(巡査)、田丸実隆(警部補)、西村逸人(巡査)は、当審証人として、その経過を大筋次のように証言している。すなわち、岡村証人は、当日現場付近で犯人らの逃走経路につき聞き込みをした後、友田警部補の指示により、夕方近くになつて、中央観光社長室で、前川一人に対し、面割写真帳を示して写真面割をし、その結果を調書に録取したというのであり、田丸証人は、当日の昼ころ、本件捜査の応援で中央観光に行つたところ、友田警部補から尾藤の事情聴取をしてほしいと依頼され、午後一時ころから事務所内の木曽の机付近で、同人から事情を聞き始め、途中で面割写真帳が来たので、これを同人に見せて面割し、引き続いて供述調書を作成したというのであり、また西村証人は、当日昼前ころ現場付近に行き、聞き込みなどをした後、一旦守口署に行き、午後再び、たぶんその折り、面割写真帳を持つて中央観光に赴き、田丸警部補か友田警部補の指示を受けて、午後三時ころから、事務所内の佐々木の机付近で、同人から事情を聴取し、右写真帳を示して面割りし、その結果を調書に録取したというのである。右各証言は、事件後約十年を経過した後のものであるから、細かい点については正確を期し難いと考えられ、特に原審証人尾藤が、当日写真を見せられて事情聴取をされた場所を「社長室でしたかね。」と述べているのは、田丸証言と矛盾するが、一まず警察官らの前記の証言を前提として考えてみても、次の疑問を禁じ得ない。すなわち、事件直後に犯行現場に多数の捜査員が動員され、目撃者らから聞き込みがなされる本件事件当日の初動捜査のような場合には、犯人割り出しに資する有力情報は、犯人追跡に緊急を要することからしても、現場で捜査を中心的に指揮する捜査官のもとに直ちに報告され、供述調書の録取は、その後に必要に応じてなされるものと考えるのが常識的であろう。しかるに、岡村、田丸、西村らの捜査官の証言中には、写真面割によつて犯人の特定が得られたという第一級の情報を直ちに現場で指揮をしていた友田警部補らに報告したことをうかがわせる部分に欠け、むしろそのまま供述調書を取ることに専心していた感がうかがえるのである。田丸証人に至つては、尾藤に対し事情聴取を始めてから供述調書を取り終るまで約四時間を要し、写真面割がなされた後に供述調書作成に取りかかつたことを認める一方で、その作成が終了するまで写真面割によつて得られた情報を他に報告することをしなかつたと明言するのである。田丸らによる写真面割の過程が右のようなものであつたとしたら、捜査陣の中で初めてその有力情報に接した者の態度と考えるには、余りにも不自然な感が強く、むしろ、同人らは、すでに他の捜査官らが尾藤ら目撃者に写真面割を済ませていた後に、その情報を得ていた友田警部補らから、証拠保全のため供述調書を録取する役目が与えられたにすぎないのではないかとの疑いが強く抱かれるところである。当審岡村証人が、当時捜査陣が聞き込み班と調書録取班とに分れていたことを肯認していること、岡村、田丸はもちろん、西村も友田警部補に指示ないし依頼されて前記のような供述録取を行つた可能性の強いこと、当審田丸証人が、尾藤らが事前に写真帳を見せられていた形跡はないかとの趣旨の裁判官の質問に対し、「友田班長がどのようにされたか分かりませんけれども」とか「それは確認もしておりませんし、わたしは聞きませんでした。」などと微妙な答えをしていて明確にはこれを否定していないことなども右の疑いに根拠を提供するものと思われる。してみると、岡村、田丸、西村らが、第一回目の写真面割の状況を明らかにする証人として、当審公判で証言するとおりの経過が、はたして、前川、尾藤、佐々木にとり初めて写真帳を見る機会、すなわち文字通り第一回目の写真面割の状況であつたかについては、多分に疑問となつて来ざるを得ない。同様のことは石橋についても言え、同人の司法警察員に対する昭和四九年九月二四日付司法警察員森利数に対する供述調書の存在に徴すると、府警本部警備第一課の巡査部長森利数が石橋から中央観光バス株式会社内で写真面割を含めて事情聴取し、これを供述調書に録取していることは明らかであるが、右の写真面割が石橋にとり、文字通り第一回目のそれであつたかについては、前同様の疑問が残るところである(殊に石橋が、原審証人として、反対尋問に答えて、初めて写真帳を見たのは守口署である旨繰り返している点は、写真帳が複数存したことや、守口署に置かれた時期もあつたことをうかがわせる前記西村証言をも考え合わすと、はたして石橋の記憶違いと言い切れるかどうかはなお疑問である)。

ところで、中央観光従業員であり、事件当日本件犯行を目撃した大渕、越智、西川、木曽、日下らは、原審証人として、写真帳や写真面割の状況を証言した際、写真帳を何人かで一緒に見て、犯人について意見を交換していたことや、少なくとも写真帳が机の上に置かれたままにあつたことについて供述している。特に大渕が「事件当日調べを受けた記憶はない。事件のあつた日は写真帳を持つて来られなかつたと思う。私に対して写真帳を見せられたのは二、三日たつてからと思う。私の机の所で二回くらい写真を見せられ、別室でも一回見て、そこで調書も取られた。机の所で写真を見た時には三人くらいで一緒に見たこともある。その時、はつきりわからないとか、これでもないとか、こんな顔をしていたというような会話があつた。」旨を証言し、越智が「事件当日であつたかあとかははつきりしないが、警察官が写真帳を持つて来て、三階か四階で見た。最初に写真を持つて来た時には、下で同僚と見たおぼえがある。調書を取られる時に三階か四階に上り、一人で調書を取られたと思う。最初同僚と一緒に写真を見たとき石橋や前川がいて、同人らが間違いないんだなどと積極的に話していた。佐々木もこれに加わつていたと思う。」などと述べ、西川も、多いときで三、四人の人が一緒に写真帳を見、意見を出し合つていたことを肯定する証言していることが注目される。これらの証言も、事件からすでに六、七年を経過した後になされたものであるから全体としての印象を述べたもので、細かな点の正確さは保証し難いものである。しかしながら、それぞれに対する供述の録取は別室などで個々的に行なわれたが、その前に数人の者と一緒に写真帳を見る機会があり、その折りに中の写真をめぐつて犯人はどれかについて語し合いのなされた形跡が濃厚に浮かび上がつてくることは、原審友田証人の「一堂に集めて写真を見せるような間違つたやり方は絶対に有り得ない」旨の証言にもかかわらず、なお否定し難いところである。(前川、西川、松山らの原審証人は、被告人両名逮捕後の面通しの折、通し窓から覗くに際し、二、三人ずつ一緒に見たと証言しているところ、本件の捜査官らは、面割、面通しに際し、目撃者を数人一緒に実施することによる相互暗示の危険性について、むしろ無神経であつたのではないかと疑われてくる。)

もつとも、大渕や越智が証言する写真帳の共同閲覧や意見交換の日時は必ずしも定かではない。大渕は、むしろ、事件当日より後日の情景として記憶しているかの如くである。しかしながら、事件当日、二〇名を越える捜査員が動員され、また数冊の写真帳が持ち込まれるなどして鋭意聞き込みがなされる中で、有力目撃者と思われる大渕や越智に対して写真帳が見せられなかつたと考えるのはかえつて不自然であること、大渕は、事件当日は写真帳を持つて来なかつたとの客観的事実に反する証言をしていること、大渕自身、写真帳を別室で見たほかに、自分の机の所でも二回くらい見たと述べていることなどからすると、同女が机の所で三人くらいで一緒に写真を見て、意見を交換した情景として記憶に残る出来事が事件当日ではないと言い切れるであろうか。

この点、当審田丸証人が、尾藤からの事情聴取に際し、「部屋には尾藤さん以外に女の人がおられた記憶があります。」旨述べている点は注目される。関係証拠によれば、中央観光事務所にあつて、当時尾藤と大渕の机は、二つだけが接し、他の者の机と離れて南窓側に置かれていたことが明らかなので、田丸証人の記憶する女性とは大渕であつた可能性が強いといわざるを得ない。してみると、たとえ田丸が、尾藤に対して写真帳を見せての最初の聞き込みを担当した者と考えたとしても、大渕証人の記憶に残る共同閲覧や意見交換の情景が、その際のものではないとは言い切れないと思われる。

確かに、原審証人石橋、前川、尾藤らは、事件当日写真帳を一人で見たと供述してはいるが、供述録取は一人ずつ個人的に行なわれているので、その際に写真面割をした情景が強く印象に残つていてこれを想い浮かべて証言したにすぎないとも考えられ、その前の聞き込みの段階で写真帳の共同閲覧やそれをめぐつての話し合いがなされた疑いをなお否定し切れない。

以上の諸点をまとめると、目撃者らの犯人特定供述を検討吟味するうえで最も重要な意味を持つ事件当日の写真面割の状況については、これを明らかにすべく当審で登場した岡村、田丸、西村らの証言をもつてしても、供述録取の段階における写真面割の経過をある程度明らかにしたものとは解し得ても、それ以前の聞き込み等の段階で、その目撃者に予め写真帳が見せられていないかについては、かえつて疑問を生起させており、他に事件当日の写真面割のいきさつ、時期、場所、方法を明らかにするものは本件証拠上ついにこれを見い出し難く(友田警部補ですら、原審証人として、事件当日の写真帳の持ち込みにつき「いつ誰れが持つてきたかわからない。」とか、「写真帳のどれを使つたか何冊使つたかわからない。」旨述べている状況のもとで、事件後十年をすでに経過した現段階で、これを解明することもほとんど不可能と思われる。)、目撃者らが初めて写真帳を見る機会に、大渕や越智が原審で証言するような共同閲覧や意見交換、あるいはこれらに類した他からの暗示を受けるような出来事がなかつたかについて、なお払拭し切れない疑問を残しているというべきである。

五石橋良夫の犯人特定供述について

原審で取り調べた関係証拠を総合すると、石橋は、中央観光正面玄関付近で、同事務所内に侵入していた犯人の一人が外へ出ようとした際、同犯人を捕まえようとし、玄関内側でその足をはらつて転倒させた後、その上着のすそをつかんでガラス製玄関扉ではさみ、そのガラスをはさんで数十秒間対峙している間に、その犯人を目撃したものであり、またその前、犯人らのライトバン襲撃を知つて正面玄関の外へ出た際、谷口殴打犯人を見たといい、さらに、玄関犯人を捕まえていた際、これを救出すべく駆けつけて来た犯人の一人を目撃したとして、以下の経過で犯人特定をしたこと、すなわち、同人は、事件後まもなく守口署で同署巡査部長植木隆から事件の概要や犯人の特徴につき事情聴取された後、同日午後、中央観光事務所内で前記森利数巡査部長から再度事情聴取されるとともに、面割写真帳を見せられ、百名を越える顔写真の中から、番号51番の写真の男(被告人櫻井)が玄関犯人であると特定し、番号10番の写真の男(被告人巽)が「他の四名のうち一人の男によく似ている」と指摘したこと、その後、同年九月三〇日に岡村巡査から、一〇月一七日に検察官からそれぞれ写真面割が重ねられた後、一〇月一九日夜に、府警察本部の友田但馬警部補の要請で被告人両名に対する直接面割りを実施するため、革マル派の関西政治集会が開催されている中之島中央公会堂に赴き、午後六時五〇分ころ、中央公会堂東側玄関から約一五メートル離れた路上において、その玄関前階段付近に座り込んでいたヘルメット着用の革マル派一〇数名の中から急に立ち上がつた人物を指示して被告人櫻井に間違いないと述べ、ついで午後七時四〇分ころ会場内から東側玄関に姿を現した人物を指示し、「写真では犯人と断定できなかつたが、今実物を見て、犯人の一人に間違いないとの自信を得た。」旨述べて被告人巽を特定し、更にその集会終了後、付近空地に止めてあつたトラックに旗ざおなどを積み込んでいた人物を指示して谷口殴打犯人に間違いないとして被告人巽を指示し、その後もタクシーの配車などをしている人物を間近に指示して玄関犯人に間違いないと述べて被告人櫻井を特定するなど、被告人櫻井のみならず、被告人巽についても、犯人であると確信を抱いた感のあること、その後、被告人両名が逮捕された後、取調室で事件当日の服装を着用した被告人両名を透し窓から面通しした結果、両名が犯人に間違いないと思つたこと、そして、事件後約三年を経過した昭和五二年八月一日、原審第二一回公判で、被告人両名と対面して、被告人櫻井が玄関犯人であると思う旨、また被告人巽が玄関犯人を救出に来ようとした犯人の一人である旨、それぞれ証言したこと、以上の事実を認めることができる。

検討するに、石橋は、中央公会堂での実物面割や被告人両名逮捕後の面通しの際に、被告人両名が犯人であることの確信を抱いている感にみえるが、すでにそれまでに写真面割を三度も重ねていることからすると、事件から一か月近くを経過している中央公会堂での実物面割の段階では、当初の犯人像についての記憶は、度重なる写真面割の影響を受け、変容していた可能性が十分考えられるところであり、同人の原審証言その他の証拠によつても、中央公会堂以降の面割、面通しに際し、犯人の特徴につき新らたに記憶を喚起したとうかがわせる等特段の事情も認められない点(原審証言で、中央公会堂で被告人らを見た時の感想を「びつくりした」と表現しているが、これをもつては、右特段の事情とするに足りない。)をも考慮すると、これらの犯人特定に独自の証拠価値を認めることは困難である。いわんや三年を経過した時点における公判証言においては、被告人らとの対面にあたつての犯人像の記憶が写真面割以前の元の記憶であることの保障は全くないものであつて、これに独自の証拠価値を認めることはできない。してみると、石橋の一連の犯人特定供述の信頼性は、ひとえに、写真面割の際、それも特に事件当日における第一回目の際の犯人特定供述の信頼性如何にかかつていると考えられる。

石橋の目撃状況、特に玄関犯人については、捕えてやろうとの積極的な気持でいたことや、数十秒間至近距離で対峙していたことなど他の目撃者に比較して、条件が数段勝つていたことのほか、事件直後の記憶の新鮮であつた当日の午後、多数の写真の中から被告人両名の写真を選び、特に玄関犯人については、確信的に指摘していたとうかがえることからすると、被告人櫻井については相当信頼し得るかにみえ、また被告人巽についてもそれなりに評価せざるを得ない。

しかしながら、(1)前記三で指摘したとおり、その冷静かつ正確な観察をある程度困難にさせる心理的、物理的な諸状況は、石橋とてもその大部分を免れることができず、特に犯人が帽子をかぶつていたことや覆面の疑いによる観察の限界を軽視できないこと、(2)事件当日に実施された写真面割のいきさつには、前記四に説示したとおり、いつ、どこで、どのような形で石橋に写真帳が見せられたかについて不明な部分が残され、目撃者相互間における共同閲覧や意見交換の疑惑が払拭できていないのみならず、森巡査部長による写真面割に際しても、石橋が同警察官とその写真帳をめぐつて、どのような会話を交わし、いかなる表現で犯人を特定したかについて、これを明らかにする証拠は存せず、その際の確信の度合を正確に知ることができないこと(検察官の所論中には、石橋の司法警察員に対する各供述調書の供述記載を引用して石橋の特定状況を有利に主張する個所が存するが、右各証拠は、弁護人から、石橋証言を弾劾するための刑訴法三二八条書面として申請され採用されたもので、被告人らが犯人であるとする供述内容を公訴事実認定のために供することはできないものである。)、(3)原審証人川中修一の証言によれば、弁護人川中修一が昭和五二年四月一三日に反対尋問の事前準備のため、回生病院に入院中の石橋を訪ね、その際の会話を秘密録音したことが認められ、原審で刑訴法三二八条の証拠として取り調べられた録音テープ(当庁昭和五八年押第三四一号の一四、反訳書((一一冊三七五一丁))添付)によれば、石橋は川中弁護人に対し、「僕、写真見るまでにね、会う時にやね、(田村が)巽と櫻井まちがいないということ言うとつた。これは事実やわ。これは僕言うてないけど。」などと話し、事件当日、守口署の調べが終つたあと、谷口が入院した病院に見舞に行つた際、犯人らが襲撃の折、社長室に逃げ込んで難を逃がれた田村から被告人両名が犯人であると教えられた旨述べていることが認められ、写真面割の前に犯人と疑われる者の名前を知つていて、写真面割の際これが影響を与えた可能性の疑惑をもたらせていること(なお、当審において検察官からの請求により刑訴法三二八条の証拠として採用し取調べた石橋良夫の司法巡査半田正利に対する昭和四九年一〇月二五日付供述調書によれば、石橋の供述として、「同月二一日に中核派の上京バス配車場所である前進社近くの新御堂筋高架下へ行くと、田村が来ており、同人から『あのときにやつたやつは分つとるんや。やつたのは、櫻井、巽らや。警察の豚箱まで追いかけていかれへん。泳がしておかにやいかん。』などと言われたので、石橋としては、九月二四日田村らを襲つたのは櫻井、巽らで中核派はこれらの者に復しゆうするというふうにとれたので、警察でも警戒して下さい。」との記載のあることが認められ、検察官は当審弁論として、前記録音テープは右供述調書作成時から約二年六か月後のものであり、その内容の正確性、信用性には疑問があり、このような事情と石橋の原審証人としての「本件当日守口署で第一回目の事情聴取を受けた後、松下病院に立ち寄り、負傷した谷口を見舞つた際に、中核派の秋保に会つたが、同人から犯人は櫻井と巽であると聞いた記憶はなく、そのときには田村廣則と会つていない、少なくとも当日中核派側から櫻井、巽の名前を聞いたことはない。」旨の供述とを合わせると、本件当日松下病院で会つたのは秋保のみで、同人からは犯人については何も聞いておらず、前記録音テープの内容は信用し難いというが、前記録音テープ中の田村が病院にいて話した旨の石橋の供述内容には真実性が感じられ、また、同録音テープ中の「これは僕言うてないけど」との発言からみると、警察にもその際田村から聞いたことを話していないとの趣旨にも受けとれ、石橋は、田村から事件当日と一〇月二一日の二回被告人両名が犯人であるとの情報を聞いたが、警察には一〇月二一日の情報のみを伝えた可能性も考えられ、公判証言での否定にもかかわらず、なお前記の疑問を否定し去ることができない。)(4)また、右録音テープ及び反訳書によれば、右面接の際、石橋は、被告人らが犯人であることの確信の度合は六〇パーセントくらいで、絶対間違いないとは断言できない旨発言していること、(5)当審における事実取調の結果によれば、被告人櫻井の顔には、本件当時、右眼下から鼻の右側に沿い上口唇右上方付近にかけて線のように残つている傷跡があり、これは事件の約一年以上前に、約二メートルの高さの所から飛びおりた際洋傘の先が顔に突き刺さつて約二〇針を縫つた傷の跡で、現段階でも約三メートル離れた位置から凝視すれば肉眼で一応確認できるものであることが認められるところ、石橋が、玄関犯人につき右のような傷跡のあつたことを確認している証拠は全く存しないこと、(6)当審における事実取調の結果によると、被告人櫻井の身長は、一六八センチメートルであることが認められるところ、石橋が、事件当日、写真面割前に、守口署で事情聴取されて作成された植木巡査部長に対する石橋の供述調書の記載中には、玄関犯人につき「この男はめがねをかけており、身長1.63メートルくらいで、やせ型、ひよわい男」となつているものの、右の「1.63」は、もともと「1.50」の記載のあつたのを、「五〇」の部分を二本の棒線で抹消し、その横に「六三」を書き加えて植木巡査部長の訂正印が押されている部分であつて、同調書の後の供述記載には「犯人はみんな青白い顔で背が低く、1.50くらいでやせ型でありました。」となつているままで訂正の加えられていないことや、右訂正の数字が「六三」と余りに精密な記載となつていること等を考え合わせると、犯人の身長についての加削個所は、犯人特定後に手が加えられたのではないかとの疑惑が残り、少なくとも、石橋の玄関犯人の身長についての当初の記憶が被告人櫻井の実際のそれと大きく違つていた疑いを残していること、(7)本件犯行現場には、玄関犯人が侵入していた中央観光事務所内を含めて、前記のとおり多数の目撃者がいたのに、被告人櫻井を犯人と指摘し得たのは、石橋の外に、後記のとおり、あいまいな点が残る前川、尾藤だけであり、他にいたことを認めるに足る証拠のないこと、(8)石橋が、被告人巽を犯人として特定した経過には、事件当日、守口署で、谷口殴打犯人につき、「私は、この場面を直接見ていないので、谷口君を殴つた男は誰れかわかりません。」と述べ(植木作成にかかる供述調書)、またその日の写真面割の際には、被告人巽の10番の写真を犯人の行動を指摘することのないままに「他四名のうちの一人の男とよく似ている。」と述べていた(森作成にかかる供述調書)のに、同年九月三〇日になつて、はじめて写真10番の男が「谷口を殴打した二人のうち一人であり、かつ玄関の方へ引き返そうとして来た三人のうち一人とよく似ている」旨行動を伴う指摘に至つているので、同犯人に対する観察のあいまいさがうかがえるのみならず、事件当日の指摘も、被告人櫻井についての断定的表現との対比でみると、「よく似ている。」との表現は、その確信の劣ることを示すものとうかがえること、以上の諸点を勘案すると、石橋の犯人特定は、被告人巽についてはもちろんのこと、被告人櫻井についても、なお誤認の可能性について一抹の不安を残し、犯人であることを確信させるには足りないというべきである。

六前川勝の犯人特定供述について

原審及び当審で取り調べた関係証拠を総合すると、前川は、中央観光事務所内から、谷口が西側路上で犯人のうち一人に鉄パイプで殴打されるのを見た直後に北側出入口から右路上に出て、その谷口殴打犯人を、三、四メートル離れた位置から目撃したこと、同人は、事件後まもなく、守口署で坂井義夫巡査から事情聴取された際、犯人らが全員覆面をしていたことを再三述べ、「その人相は思い出せない。」などと供述していたこと、その日夕方、中央観光社長室で前記岡村政之巡査から写真帳を見せられて写真面割を受けた際、番号10番の写真の男(被告人巽)が谷口殴打犯人に似ていると評価し、番号51番の男(被告人櫻井)について、具体的行動は覚えていないが、五、六人の犯人の中にいた一人であると指摘したこと、その後一〇月五日に岡村巡査から守口署で再度事情聴取と写真面割を受け、その際、前記のとおり覆面の点を訂正していること、同月一七日には検察官から写真面割を受け、被告人巽の写真につき「非常によく似ている」とか「イメージがぴつたりします」などと述べ、被告人櫻井の写真につき、「犯人の五、六人の中にいた男によく似ています。しかしこの男が具体的にどういう行動をとつていたかは記憶しておりません。」などと供述していること、また被告人両名逮捕後の面通しの際にも、被告人巽がよく似てたように思つたこと、昭和五三年二月二〇日の原審第三〇回公判において、証人として出頭した際、被告人巽と対面して谷口殴打犯人に近いという記憶がある旨証言していること、以上の事実を認めることができる。

検討するに、前川の犯人特定供述は、谷口殴打犯人につき目撃位置の比較的近いことや事件当日の夕方、記憶のまだ新鮮な時期に多数の写真の中から一応犯人に似た人物として被告人両名を特定し得ていることは、特に被告人巽につきそれなりに信頼性があるかにみえる。しかしながら、(1)前記三に指摘した冷静かつ正確な観察を困難にさせる諸状況は、前川にすべてあてはまるのであり、特に覆面についての当初の供述は、犯人らの人相を思い出せないとしていた供述と相まち、その犯人特定供述の価値をかなり損うものと考えられること、(2)最も肝心な事件当日の写真面割の際の犯人特定に関しては、写真面割のいきさつに不明の部分が残り、目撃者相互間での写真帳の共同閲覧や意見交換の疑いを払拭できていないことは前記四に指摘したとおりであるのみならず、その写真面割にあたつて、岡村巡査との間でどのような問答が交わされたかについても正確にはこれを知る証拠もないこと(当審岡村証人は、前川の一〇月五日付供述調書中「イメージぴつたり」との表現について、言葉の癖として、自分が相手に向けて発したものかもしれない旨述べ、表現上の誘導のあつたことを否定していない。)(3)事件当日の写真面割の際の判断も、被告人巽の写真につきせいぜい似ているというにとどまり、被告人櫻井の写真に対応する人物については、その具体的行動を指摘し得ていないのであり、前川の原審証言では、その似ているという評価は、犯人と断定できる意味ではないことを肯定していること、(4)一〇月五日の写真面割以降の犯人特定供述については、すでに写真面割を経過しているものだけに独自の証拠価値を見いだし難いのみならず、この間、同じ職場の他の目撃者らと相互に意見を交換し合つている形跡が、同人の原審証言によつてもうかがえることをも考慮に入れざるを得ないこと、以上の諸点に照らすと、前川の犯人特定供述は、被告人櫻井についてはもとより、被告人巽についてもなお、その観察や判断の正確さに一定の疑問を残していて犯人であると断定するに足るものではない。

七尾藤治の犯人特定供述について

原審及び当審において取り調べた関係証拠を総合すると、尾藤は、犯人らの襲撃を知つて自席を立ち正面玄関の方へ行きかけた時、中山を追つて事務所内に侵入して来た犯人の一人と約一メートルの距離ではち合わせの格好となり、びつくりしてすぐ自席に戻り、七、八メートル離れた社長室前でその犯人が中山を殴打しているのを目撃したこと、その日の午後、中央観光の建物内で、前記田丸警部補から写真帳を示されて写真面割をした結果、番号51番の写真の男(被告人櫻井)、をそのはち合わせした犯人によく似ていると指摘して犯人特定をしたこと、そして約五年を経過した昭和五四年六月七日の原審第三七回公判で、証人として出廷した際、被告人櫻井を指示して、その犯人が「左側の人じやないかと思います」旨証言していること、以上の事実を認めることができる。

検討するに、尾藤は、一メートルの近距離から犯人を目撃し、その記憶の新鮮な事件当日の午後、多数の犯人の中から、犯人に似ている写真を指摘し得ていることは、それなりに評価せざるを得ない。しかしながら、(1)前記三に指摘した冷静、正確な観察を困難にさせる諸状況は、尾藤にもすべてあてはまり、特にはち合わせした犯人を見たのは、ほんの一瞬であり、気も動てんしていたことが推認できるのみならず、同人の記憶にはその犯人が覆面していたものとしてとどまつていることなどは、その顔の識別が相当に困難であつたとうかがわせること、(2)事件当日の写真面割については、そのいきさつに不明の部分が残り、目撃者相互間での写真帳の共同閲覧や意見交換の疑いを払拭し得ておらず、その際の指摘も「よく似ている」というにとどまり、田丸警部補との間でどのような会話が交わされ、右の結論に至つたかもこれを認めるに足る証拠もないこと、等にかんがみると、尾藤の犯人特定供述についても、その観察や判断の正確性につき一定の疑問を残していて、被告人櫻井が犯人であると断定するに足るものではない。

八佐々木淳夫の犯人特定供述について

原審及び当審で取り調べた関係証拠を総合すれば、佐々木は、中央観光事務所内で勤務中、犯人らの襲撃を知り、木片を持つて路上に飛び出して行つた谷口を制止すべく、北側出入口から西側路上に出た際、谷口を殴打する犯人を数メートル離れた位置から目撃したこと、同人は、その日の午後、中央観光事務所内で、前記西村巡査から革マル派写真帳を示されて写真面割を受け、番号10番の写真の男(被告人巽)を犯人によく似ていると指摘し、同年一〇月一八日、検察官から、同じ写真帳を見せられた際、「10番の男が、目つきとか唇の分厚い点、メガネの色等が谷口殴打犯人に非常によく似ていました。しかし犯人と同一人間であるとまでは断定できません。」旨供述したこと、以上の事実を認めることができる。

検討するに、佐々木も、比較的近距離から谷口殴打犯人を目撃し、記憶の新鮮な事件当日の午後、多数の中から犯人とよく似た男を指摘し得たことは、それなりに評価せざるを得ない。しかしながら、(1)佐々木も、冷静かつ正確な観察を困難にさせる状況下にあつたことは、他の目撃者らと同様で、特に、谷口殴打犯人が帽子を深くかぶつていたこと(検察官に対する同年一〇月一八日付供述調書)や気が動てんしていたこと(同じく同年一一月二七日付供述調書)を自認していることにかんがみ、その目撃条件は良好とはいえないこと、(2)事件当日の写真面割については前記のとおり不明の部分が残り、目撃者相互間での写真帳の共同閲覧や意見交換の可能性を否定できず、「よく似ている。」として被告人巽の写真を指摘し得ているものの、その結論を得るまでに、西村巡査との間で、どのような問答がなされたかについて、これを正確に知る証拠もなく、後に検察官による写真面割の「断定できない。」旨を述べているところから推して、あいまいさを残していたことが疑われること、(3)佐々木が検察官による写真面割の際、谷口殴打犯人の特徴として、口唇が分厚いことを挙げている点は、被告人巽の顔の一つの特徴と共通するものとしてある程度注目せざるを得ないが、その特徴指摘が事件当日の写真面割の際にも同様にあつたのか、あつたとしても写真帳を見る前の指摘であつたのかの点は、写真によつて元の記憶が影響を受ける前の指摘かどうかを吟味するうえで欠かせないものと考えられるのに、当審証人西村によつてもこの点の解明はできていないのであつて、再度の写真面割の機会に、右のような特徴点の指摘があつたからといつて、これをさほど重視するわけにはいかないこと、等の諸点に照らせば、佐々木の犯人特定供述についても、その観察や判断の正確さになお一定の疑問を残していて、被告人巽が犯人であると断定するに足るものではない。

九西川芳明、松山博美の各犯人特定供述について

原審及び当審で取り調べた関係証拠を総合すれば、西川は、中央観光事務所内で仕事中、犯人らの襲撃を知つて、佐々木と同様、谷口を追つて北側出入口から西側路上に出て、犯人の一人が谷口を殴打したのを二、三メートル離れた位置から目撃したこと、松山(旧姓筒井)は、中央観光と同じ建物の三階にあつたスリーボンド株式会社に勤務していて、その三階の窓から、七、八メートル離れた位置にいた路上の犯人の一人が谷口を殴打するのを他の同僚らと一緒に目撃したこと、西川は、昭和四九年一〇月二二日、中央観光鶴見営業所で守口署巡査半田正利から革マル派写真帳を見せられて写真面割をした際、番号10番の写真の男(被告人巽)が谷口殴打犯人に断定はできないがよく似ていると指摘し、その後同年一一月一三日に検察官から再度同じ写真帳を見せられた際にも、10番の写真につき「よく似ている。特に横顔が非常によく似ている」と供述し、被告人ら逮捕後の面通しの際にも、被告人巽を見て、よく似ていると思つたこと、松山は、同年一〇月二日ころ、スリーボンド事務所内で、前記岡村巡査から革マル派写真帳を見せられて写真面割をした際、番号10番の写真の男(被告人巽)が谷口殴打犯人に似ているとして指摘し、同年一〇月二二日に検察官による写真面割に際し、被告人巽の写真につき「犯人に非常によく似ている。特にその横顔が非常によく似ている。」と供述し、その後、被告人ら逮捕後の面通しの際にも、同様の感想を抱いたこと、以上の事実を認めることができる。

検討するに、西川、松山の各犯人特定供述は、多数の写真の中から犯人と似た人物として被告人巽の写真を指摘し得ていることや西川については、その目撃した位置の比較的近いことなどからすると、それなりに評価せざるを得ないが、(1)前記三に指摘した冷静、正確な観察を困難にさせる諸状況はすべて同人らにとつても免れ難く、特に、西川については、原審証言で、その目撃した犯人が帽子を深々とかぶり、かつ覆面をしていたことを肯定しているのみならず、犯人の形相が狂つたような顔をしていたと述べている点、松山においては、その目撃位置が他の者と比較して劣つている点を考慮せざるを得ないこと、(2)西川、松山に対し、正規に写真面割が実施されたのは、事件当日から日を隔てており、特に西川については約一か月経過後であつて、記憶の減退は否めないと思われるのみならず、西川は、その原審証言で、写真面割までの間に、中央観光事務所で、誰れが犯人であるかについて話の出ていたことを肯定し、また写真帳を見る機会のあつたことや共同閲覧、意見交換のなされていた事実も肯定しているのであつて、同人がこれらの機会に犯人につき暗示を受けていた可能性が強く疑われ、松山は、原審証言において、警察官から写真帳を見せられた際、応接室のテーブルのところで、同僚二、三人と一緒にこれを見て、意見を交わし合つた事実を肯定しており、当審証人岡村の否定的証言にもかかわらず、岡村巡査による前記写真面割の際に右のような事実のあつたことが強く疑われること等にかんがみると、西川、松山の各犯人特定供述については、その観察や判断の正確性につき、かなりの疑問を残していて、被告人巽が犯人であると断定するに足るものではない。

一〇総合的評価

以上の検討を総合してみると、石橋以下各目撃者らの犯人特定供述は、被告人両名があるいは本件の犯人ではなかろうかとの疑いを抱かせるものもないではないが、観察の正確さや判断の信頼性について、それぞれ疑問を残しており、特に相互暗示の疑いの払拭し切れないことをも考慮すると、これらを総合することによる評価にもおのずから限界があるといわざるを得ず、被告人両名が前記のとおり革マル派の活動家であつたことを念頭においても、なお誤認の疑いを消し去ることはできないというべきである。

以上の次第で、結局本件全証拠によるも、被告人両名が本件の犯人であると断定するに足る証拠はないことに帰し、被告人らのアリバイ主張につき判断するまでもなく、被告人両名を無罪とした原判決の判断は、結論において正当であり、これを是認するのほかはないものである。したがつて、原判決には所論のような事実誤認はないから、論旨は理由がない。

よつて、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却することとし、主文のとおり判決する。

(尾鼻輝次 木村幸男 伊東武是)

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